空<あな>


「……下らぬことであった……」
無感情で抑揚のない、混沌の水面に浮かぶ花弁のような、静かで静かで、何もない声音。
赤い蝋燭の炎が数本揺らめくだけの真っ暗な天守。
その中に浮かぶ色のない肌に青の模様。彼こそが風魔小太郎。
彼の淡い空色の瞳の先に、痛みを耐えて呻く家康の姿があった。先程家康の肩に入れてやった蹴りには、風魔の力の十分の一も力を込めてはいない。
風魔の物を見る目は<哀れ>だ。何もない。その目がふっと反らされた刹那に、半蔵は隙をついた。
影から現れ、鎖鎌を構え床に足をつけた瞬間、突然訪れた息苦しさに力が抜け、鎌を落としてしまった。
「っぐ、ぁ……」
「……半蔵か…」
風魔の手が半蔵の首を掴み上げ宙吊りにすると、あとから彼の視線が注がれる。手が先に動いたというのか。
半蔵は信じられないという面持ちで天井を見つめていた。
やはり敵わないのか……殺されるかもしれない。
しかし、意外にも半蔵にかけられたのは感謝の言葉だった。
「半蔵…感謝しよう。貴様がいなければ、世の中はただただつまらぬものであった」
いつもの笑みを風魔が浮かべる。何を考えているのか、いないのか解せぬ表情。
「家康公、下らぬ遊びに付き合いいただいた礼だ…」
身を引っ張られるような、引き伸ばされるような、そんな感覚の中息苦しさがふと消えて、半蔵は家康にぶつかった。
投げ飛ばされたらしい。
「半蔵の命と、日の本をくれてやろう」
「はっ…」
さっと体勢を立て直した家康が、恭しく頭を下げる。
家康を守るように制止の手を出しながら、半蔵は今まで感じえなかった感情に揺さぶられていた。
「我が痕跡を……史実を作り……天下人ならばたやすかろう?」
風魔が何か言っている。が、何も聞こえない。


自分は今、どんな顔をしている?


そして彼は…<どこへ行く>?


しかし、そう思っただけだった。不思議と声が掠れて音を成さない。首を掴まれたとき、声を奪われてしまったかのように。
言い表せられない、漠然とした…これは不安?例えるならば、死に直面した者の最期を見届けるときのような。しかし、これは悲しみでは……ない。
「闇は……実力で奪い取れ」


言わないでくれ
最後の言葉を


風魔の傍にいた狼二匹が、柔らかな遠吠えをあげる。風魔の姿が次第に空間へと溶けていく。
半蔵は思わず手を伸ばしかけた。家康は何も言わない。
風魔の足が消え腹が消えたとき、風魔の瞳がもう一度半蔵を映して、微かに見開かれた。
「どうした、半蔵……泣いているのか?」
半蔵は自らの目を疑った。彼の言葉に、伝い落ちては覆面に染み入る液体に、そして何より消える寸前に見せた彼の人間らしい微笑みに。


消えてしまった
あんな最後だけ残して


半蔵は今はもう何も無くなった空間を見つめながら、その場に崩れ落ちる。
「……史実を……」
家康が何かに取り憑かれたようによろよろと立ち上がり部屋を去る。半蔵には目もくれなかった。
「……風魔」


まるで、空<あな>が開いたよう


暗い天守にぽつりと落ちていたものに、半蔵の目が留まる。
いつも風魔の傍らにあった、青い…空色の房の付いた耳飾り。




圧倒的な支配者が、急に消え失せてしまうだけで、その支配下はこのように空虚になってしまうものなのか。
「半蔵」
九州遠征から七日後、風魔消失から四日後。無傷の勇将本多忠勝は半蔵の部屋の前に立っていた。
世は泰平、混沌の平らげた、戦なき世。
今宵は朧月夜、この部屋の主が最も似合う、月の夜。
「いつまで引き篭っておるのだ」
しかしその主は、この四日間忠勝の前に姿を現さなかった。
流石に見兼ねた忠勝が部屋の戸を開けると、その主は暗い部屋の中心で窓から差し込む月明かりに身を晒していた。
ひやりとした月明かりに微かに照らされた顔が、忠勝を見遣る。その姿はまさに幻想的。顔に傷が幾筋か走ってはいるが、顔立ちの美しさにまた別の一面で興を添えている。
心底惚れているなと自覚しつつ、忠勝は部屋に入ると戸を後ろ手で閉じ、半蔵に近づいた。
ろくに食べ物など口にしなかったのだろうか、夜着の隙間から見える足首はいっそう白く細い。


闇にも、月にも溶けてしまいそうな忍び


しかし部屋には何本もの槍が飾ってあり、泰平の世で彼は武士でもあることを物語る。
「……身近で強大な敵がおらぬようになって、何も見えぬようになったか、半蔵」
座る半蔵を立って見下す忠勝の目は、諌めるもの。
「何も食わず、何も見ず、引き篭るなど一体どうかしたのか?」
「………忠勝」
久方ぶりに聞く半蔵の声は心地よい。
声に誘われるように忠勝は彼の隣に腰を下ろす。
「……消えぬのだ」
「…何が?」
「……首枷が……」
忠勝の質問に答えた半蔵の声は、酷く弱かった。




「半蔵」
呼ばれて赴けば、普段とは違う彼の姿が目に焼き付いた。胡座をかいて座る姿は同じだが、いつもはあれほど編み込まれている赤色の髪が、跡一つ付くことなく真っすぐに垂らされ、その先が床に散らばっている。
その姿に見とれていたら、手を引かれて抱きしめられた。
…いや、違う。動きを封じられているのだ。半蔵はそう思うことにした。
「我の前で、他のことを考えられるような余裕でもできたか、半蔵」
彼、風魔の声が、耳元で囁かれる。
「しかし半蔵…我が呼ぶときは、このようなものは要らぬと言ったはずだろう」
不意に半蔵からはなれた手の内に見せられたのは、半蔵が隠し持っていた暗器。いつの間にか懐から抜き取られていたらしい。半蔵はただ黙っていた。
「……犬を飼うには首輪が必要よな……特に、主の手に噛み付く犬には……」
くくく、と喉を鳴らす風魔。
「いつか贈ってやろう……首枷を」
暗器を放り投げ、言葉とは裏腹に、優しい手つきでまた風魔は半蔵の動きを封じた。




「首、枷……?」
忠勝は半蔵の首を、暗い部屋の中で目を凝らして確認する。白い喉に、赤黒い手形が首を絞めるかのように刻まれていた。思わず言葉を失う。
それは、風魔消失の日に付けられた跡。
「……消えぬ」
半蔵はおもむろに手にしていた彼の耳飾りを強く握り締めると、体の奥から捻り出すように言葉を紡ぐ。
「自分で痕跡を一切消せと言っておきながら……拙者に消せぬほど刻み込んで消え失せる……拙者は、どうすればよい?記憶か忘却か……わからぬ」
風魔が最後に残した首枷。これが未だに半蔵を混沌に縛り付けている。
「……半蔵、よく聞け」
忠勝は自分も見慣れた耳飾りを半蔵から奪い取ると、彼の左耳に付けてやった。困惑した表情で、半蔵が忠勝の顔を見る。
「だからといって、このままでいてはならぬ」
確かに自分の虚無感に身を委ね日々を過ごすのは楽かもしれない。
半蔵は黙っていた。いつものことなので、忠勝は構わず続ける。
「どんなにあがいたところで、風魔はもうおらぬ。見えぬ。この事実は変わることはない……わかるな?」
「………」
「だがこの跡も、これも……彼が我らの傍に居た、我らが軍を率い、戦場を縦横無尽に駆け回り、天下をも残した。それを証明できるものだ。これだけは確かなことだ」
「………」
「しかし今……日の本の歴史は捏造される」
我が殿の手によって、と忠勝は指先で青い房を弄んだ。
「半蔵、忘却と記憶、どちらがたやすいかは一目瞭然であるな」
「忘却なり」
「そうだ。歴史は捏造され、この混沌に支配された天下は徳川の天下に取って代わられ……やがて記憶から消え去るだろう」
そこで一呼吸おき、忠勝は窓の月を眺めた。
「だからこそ拙者は、本多忠勝と服部半蔵は忘れ去ってはならぬと思うのだ」
「しかし、忠勝」
「誤解はするな半蔵。我らが忘れてはならぬのは風魔ではない」
忠勝の言葉が、半蔵のものを遮る。
「我らが忘れてはならぬこと…それは<混沌は我らのすぐ傍に常に存在していること>だ」
「………」
半蔵が一瞬微笑んだ。
「…忠勝は忘れ去れと言うのだと思っていた」
「…否。見よ半蔵。この跡も飾りも、彼が忘れぬよう残した物と見なせばどうだ」
忠勝は半蔵の両肩をがっしと掴むと、真正面から彼の目を見つめた。
「<もう風魔はおらぬ>、だが我らは<忘れてはならぬ>。またいつか、混沌はやってくる。その時それは風魔の形をしているかもしれぬし、何の形も成しておらぬかもしれぬ。どちらにせよ我らはただ今の泰平を守るのみ」
「……承知」
見返した半蔵の目が、やっと前を向いた。
半蔵が欲しかったのは、明確な答え。混沌に知らぬ間に侵食され空っぽにされた彼には、曖昧なものは逆効果であることを、忠勝は見抜いていた。
―――だからこそ、本多忠勝には誰も敵わない
改めて思い知らされて、半蔵はそのまま前に倒れて忠勝の胸に顔を埋めた。少し震える忠勝の体。
こんなに完璧なのに、このようなことで動揺するとは。
「忠勝……面白い漢」
困ったように笑って、忠勝は溜め息をついた。手を彼の背中にまわす。いつもの半蔵だ、と思いつつ。


思えば髪も乱れている
風魔に付けられた傷も数知れず
それでも忠勝は、我を受け入れてくれるだろうか


この体は暖かい。忠勝の武骨な手が触れるところから、じわりじわりと。
月など冷たくない
「…しかし、<拙者の>半蔵に…風魔の跡が残ってしまったのは残念であるな」
「?!!」
その言葉にぎょっとして忠勝の顔を仰ぎ見れば、月光に照らされた彼の顔は少し赤い。
半蔵と目が合うと、忠勝は目を閉じてふいと顔を反らした。
「……拙者はあの妖忍とは違い、消えたりはせぬ」
それはそれは、小さな声で。
「消えていなくなったりなどせぬ、半蔵」
「……それでも、忠勝……風魔は……風魔は」



人であったのだ



半蔵は忠勝の肩に額を押し付けると、彼の見えないところで微笑んだ。
ただ、今の幸せに。

はじめはあまあま小太半のはずでした(イバラ道)
それが終わってみたら、ただのあまあーま(ちょっと上級)忠半に…






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