失ったモノ


「………孟起」
「どぉわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!」
耳元に息を吹き掛けながら切なく字を呼ばれ、馬超は全身鳥肌を立てて背後の趙雲から離れた。
幕舎から出て、兜を取った矢先の事だった。
「な、何か用か!?」
「……別に逃げなくてもよいであろう……」
眉をしかめて溜息をつく。さすがに美形なのでさまになっている。
馬超は疑い続けていた。本当にこいつが西涼にいた時に聞いていたあの趙子龍なのか。
「気配を消して背後に立たないでくれ……」
趙雲が、一歩踏み出す。馬超が一歩退く。またもう一歩。2人の距離は変わらない。
「何故、逃げる?何もしない。大丈夫だから、逃げるな」
「何も……しない?……俺も何故だか知らないけれど、信じられん。その言葉」
馬超は殆ど泣き笑い状態である。馬超は趙雲が苦手だった。
ふと、趙雲の顔に影が落ちた。俯いて、口をつぐむ。
演技だ……これは演技だ!馬超はそう思い込もうとする。俺をからかうのがそんなに楽しいのか?
「あぁ、楽しいとも」
趙雲が、小さく呟く。馬超はその言葉が聞こえ―――聞こえなかった振りをして、また一歩退く。
それにあわせるかのように、趙雲は俯いたまま一歩前へ出る。
「本当に……何も……しませんから……」
趙雲の声は、さっきまでとはうってかわってしおらしいものになり、肩まで震わせている。
馬超は全身を強張らせ、どうしたものかと困惑している。ふと空を見上げれば、太陽は馬超の事などお構い無しに燦々と輝いていた。
大きな溜息とともにやりきれなさを吐き出して、馬超は口を開いた。
「で、子龍殿。何か用があったのではないのか?」
趙雲が顔をあげて、微笑みを浮かべる。
それは、悪魔のようで。
「孟起は、私の事をどう思っている?」
…………思う?それは、一体どういう意味で…
馬超が混乱している間に、趙雲が一気に馬超に近付いた。馬超も後ろの下がろうとするが、数歩下がった時、背中に何かが当たった。幕舎の幕だった。
「私は……孟起…」
どうする事もできずに、馬超はその場にへたり込む。そこに趙雲が近付き、しゃがんで目線を馬超の目線に合わせた。
頭が真っ白で、何も考えられない。馬超は趙雲の様子を見ているしかなかった。
趙雲は少し考えた後、身を乗り出して指を短い馬超の髪に差し込んで引き寄せ、自身も顔を近付ける。
息遣いが、確実にわかる距離。
焦点が合わず、その事もあって馬超は必死になって答えを探した。苦手だ、とか、そんな事を答えたらよいのか。嫌いではない。嫌いなわけではないのだ。
そんな馬超をよそに、趙雲はじっと馬超を見つめた。あの兜やあの鎧のせいか、あまり肌は焼けていない。健康的な、白すぎる事もない肌だな、とかなんとか思いながら。
刹那、馬超の上半身が、趙雲のほうに倒れ込んだ。唇が、触れあう。と同時に馬超の背に鋭い痛みが走った。
頭が何が起こったのかを理解するよりも早く、幕舎の中から声がした。
「丞相ぉ〜幕の外に何かありますよぅ〜?」
「(姜維……わざとやってません?)」
幕が上がり、そこから顔を覗かせたのは諸葛亮と姜維であった。徹夜明けなのか、2人仲良く目の下にくまを作っている。
「おや、趙雲殿に馬超殿。何か御用でも?」
羽扇をパタパタさせながら、諸葛亮が趙雲と馬超を見下ろした。
「(丞相だって何だかんだ言いながら顔がニヤついてますよ)」
姜維が思いっきり馬超の背を蹴飛ばしたからであろう、彼は足を押さえながら苦笑いした。
趙雲がそのままの格好で、姜維に向かって親指を立てる。
趙雲は、触れあっているだけでは足りないのか、唇をこじ開けて馬超の歯列を舌でなぞった。
馬超はそれを無意識に嫌がって、口を少し開く。出来た歯の隙間から舌を差し込もうとした時、白くなって いた馬超が赤くなった。
それに気付き、趙雲は行為を中止し、名残惜しそうに口を離す。そして、にやりと笑った。
「口付け、ありがとう……孟起」
趙雲がそう言い、諸葛亮と姜維は2人を面白そうに見ていて。
馬超が青くなる。
そんな馬超の腰を抱くように、趙雲は腕をまわした。
「あ…あれは……!」
かすれた声で、わなわなと震え出す。
「あれは、事故………事故なんだ……」
趙雲は腕の力を強くし、逃がすか、と目で笑う。
「おアツイようで」
さも暑そうに激しく羽扇であおぐ諸葛亮が姜維をうながす。
「さ、姜維、2人の邪魔をしても悪いですし、ここはさっさと撤退しましょう?戦でも、撤退というのは一番重要ですからね」
「は〜い!丞相ぅ♪」
諸葛亮の後にくっつくようにして姜維が趙雲と馬超のそばを通る。
馬超は左手で姜維の右足を掴もうとしたが、手は空を薙いだに過ぎなかった。
「きょぉぉぉぉぉぉうぃぃぃぃぃぃぃぃぃ〜!」
怒りと怨みを込めて叫んだが、ますます趙雲の腕の力が強くなっているのを感じて、馬超は恐怖を覚えた。
姜維はこちらに聞こえるように
「丞相ぉ〜馬超殿が恐いですぅ〜」
などと言い、諸葛亮の腕にしがみついていたりする。
「孟起、天が私達の愛を祝福してくれているというのに、それでも私を拒絶いたすのか?」
「て、天が……だとっ!!?」
「そうだ…孟起……」
女なら思わずうっとりするような、心の奥に何か秘めていたような、そんな笑みを浮かべて趙雲は額を馬超の胸の辺りに押し付けるような格好をとる。相変わらず腕はまわしたままで。
顔を、互いに確認出来ない。
硬直した体をどうする事もできずに、馬超は暫くそのままの格好でいろいろと考えていた。
「…………嫌だ……」
「!?」
「お前の事、嫌いじゃないけど好きになんかなれるか!それに、俺は男だ!」
がば、と趙雲は顔をあげる。まわしていた腕を外し、すくりと立ち上がると、馬超を見下ろした。
その顔は、馬超が殺されるのではないか、と思うほど恐ろしいもので、いつもの趙雲の顔ではなかった。
馬超は、はじめて趙雲が恐ろしい、と思った。全身が竦む。
「私はッ!『馬超』の存在を……ッ!」
辛そうな顔をして、それでも馬超を見続けて趙雲は言葉をつまらせた。
「何故、」
お前が辛そうな顔をする、という言葉が馬超の口からでる事はなかった。これは、趙雲の勝手な想いではないか。
そう自分に言い聞かせて、馬超は兜をかぶりなおす。ただ、それが趙雲の視線を遮るためだけだとしても。
とっくに槍術の訓練の時間は過ぎていた。戦に出ていなければ腕は鈍る。父と弟の仇討ちをするまでは腐るわけにはいかない。何の為に劉備に頼ったのか。
趙雲の相手なんかしていられない。
「もう、やめてくれ。用がこれだけだったのならば、俺はこれで失礼する」
「………………」
馬超はまだ竦んで動かない体を無理矢理立たせ、趙雲の隣をすり抜けた。趙雲はそのままで、ただ立ち尽くしている。
ずいぶん経ったあと、幕舎前に取り残された趙雲は大きな溜息をついた。
「どうしたら……いいのだ…」
きっと嫌われたに違いない。
「軍師殿に……一計を案じてもらうか…」
諸葛亮と姜維が消えた先へ、趙雲は足を向けた。
何がそうさせるのか、なんて知らない。そんなものははじめからないような気がする。
蜀に、年が近い、同じ槍術を得意とするものが来た、と聞いた時、喜んでいた自分を思い出す。
それだけ、だろうか。実際に会って、何かを感じた。自分が知らない感情を、彼は知っている。一体それがどんな事なのか、知りたいと思った。
私も懲りぬ、と趙雲は口元を歪めた。

□■□

龍騎尖を、振り上げる。前方を払う。
目に浮かんだのは、曹操ではなく趙雲だった。父と弟を殺した万能の男。その曹操が、今回は出てこなかった。
訓練中は、必ず曹操を思う。曹操の幻影を相手に、槍を振るう。なのに、今日は趙雲だった。
目に浮かんだ趙雲に、馬超は龍騎尖をゆっくりと構えた。

□■□

「……ということなのだが、何か一計を案じてもらいたい」
一方、趙雲は諸葛亮の幕舎にいた。さっきいたところとは違う幕舎である。
中は妙に熱がこもっていた。
簡素な寝台には涼しげな顔の諸葛亮と上気した姜維が並んで腰掛けていた。
「そうですねぇ……こんなのはいかがです?」
諸葛亮が懐から取り出したのは、ほのかに白く色付いた液体が入った小ビンだった。甘い香りがする。
お酒のようだ。
「まだ試作段階です。ああ、姜維で試したらうまくいったので」
諸葛亮はにっこりと笑う。
「あとは相手にのませればいいだけです」
諸葛亮は趙雲の手をとり、小ビンを渡した。
「……諸葛亮殿。非常に有り難い。が、あいにく私も馬超殿も酒をたしなみませぬ……」

□■□

あの美丈夫は、まだ妻を持っていないと聞く。
馬超は龍騎尖を抱くようにしてきにもたれ掛かった。休憩しようと空を見上げる。重い兜をとって、一息つく。
雨雲が、空を覆っていた。もう少ししたら雨が降るだろう。と思った。
……思っただけだった。
結局、趙雲に勝つ事はできなかった。
趙雲の幻影は、馬超の繰り出す攻撃を軽々とかわして、豪竜胆を逆さにし柄で馬超を突く、その瞬間に趙雲の幻影は消えた。
余裕なのだ。彼は。馬超を殺す気すらないのだ。
趙雲の槍さばきは、何度か見た事がある。夷陵の戦いでは火計を阻止し、数多くの有名武将を倒して呉を滅ぼした。多くの手柄を立てていた。
目の前の甘寧軍に苦戦していた馬超を助けに来てくれたほどに、彼は強かった。
今日で何回目かの溜息をつく。
一体、この俺の何に惚れたというのか。あの男は。
あの戦で、何もできない自分は趙雲の戦ぶりをただ見る事しかできなかった。無力なのだ。自分は。
呉は父や弟の仇ではないにせよ蜀にとっては厄介な存在だった。
自分が倒さなければならない魏は、その呉とは比べ物にならないぐらい強大な敵だというのに。
―――父上と弟たちに申し訳ない。
視線を空から前方に戻し、目を閉じる。
偉大な父と、本当は守ってやらなければならなかった弟の顔が浮かぶ。
涙が、せきをきったように溢れてくる。
敬愛する父の死をきいた日、もう泣くまいと誓ったはずなのに―――

いつのまにか、雨が降り出していた。
馬超は木の下から出て、自分から雨に濡れた。こうすれば、雨が涙を隠してくれる。
雨は優しく、馬超を包むように音もなく降り注いだ。

□■□

馬超がいない。趙雲が気付いていたのは夕食が始まる頃からだった。
外は、雨が降っている。この雨は、多分朝になるまで止む事はないだろう。雲のせいか、空がいつもよりも暗い。
「どうしたんだ?馬超は」
張飛が酒が注がれた杯をを口に運びながら怒鳴る。
「せっかくの肉が冷めてしまいますねぇ」
諸葛亮が呟き、姜維が肉を焼く。
その隣の馬超の座るべき席が、虚しく空いている。
趙雲は、その様子を心無くただ見ているだけだった。
「探してきてはくれぬか?子龍」
劉備が言うと趙雲は我にかえってただ頷いた。
席を立とうとする体が、嫌に重く思えた。

懐には、諸葛亮からもらった例の小ビンがあった。
あれから、どうやってこれを馬超に飲ませるかを考えていた。
諸葛亮は、結局明確な案を出さなかった。
それは、どんな事を意味しているのか。わかっている。本当は、こんなものに頼ってはいけない事に。
最後に頼るのは自分の力だけだ。
知らず知らずのうちに苦渋が顔に出ていた。それに気付き、趙雲は苦笑いする。馬超にこんな顔は見せられない。
随分歩き、馬超が見えた。
雨に濡れた馬超を見、ただならぬものを感じて、馬超から少し離れたところで立ち止まる。
「……ば…ちょう……どの」
こちらの感情が悟られないように、努めて平静を装う。
馬超は、ただ趙雲を見て。
「いつまでも雨に濡れていては、風邪をひいてしまいますぞ」
「……………」
「帰りましょう?馬超殿。せっかく肉を焼いているのです。早く皆で食事をしませんか」
「煩い」
鎧が、かすかに擦れ合ってできる、小さな音。
「俺の帰るところなどどこにある、」
お前がいなかったら、俺はあの戦で死んでいたかもしれないんだ
趙雲には、馬超の姿が悲しく、小さく見えた。
「でも、今生きているではないか。実際に、私と共にいるではないか。殿も、張飛殿も、馬超殿を心配しておられるぞ」
馬超は、顫えていた。その顫えは怒りによるものなのか、寒さによるものなのか、趙雲には分からなかった。
自分は、こんなに冷静だっただろうか。馬超の言いたい事はわかっている。馬超の求めている言葉もわかっている。なのに、自分は見当違いの事を言っているのではないか?
「その、お前さえ、」
俺を、字で呼んでくれなくなったじゃないか
馬超の続けた言葉に、趙雲は自分の耳を疑った。
馬超はただ趙雲の目をじっと睨んで。
「お前なんか大っ嫌いだ」
「孟起」
「何をいまさら……」
趙雲が、一歩馬超に近付いた。
カシャン、と音がして、趙雲は自分の何処かが壊れた音に聞こえた。
でもそれは、懐に入れていたはずのあの小ビンが落ちて、粉々に砕けた音だった。
雨の音だけが支配していた空間に、その音はひどく異質であった。
馬超が言葉もなく、それは何だ、と目で問いかけて、趙雲はその目を直視する事ができなくて、俯いた。
今声を出したら、その声は顫えているだろうとか
今顔をあげたら、泣いてしまうのだろうかとか
そんな事を、ずいぶん長い間考えていた。
何も言わない趙雲にしびれをきらしたのか、馬超が口を開く。
「子龍、それは何だ?」
「………ただの、酒ですよ」
「酒だと?お前、飲めたのか?」
趙雲は、馬超に背を向けた。
壊してしまうのがいいのだ、こんなものは。
おそらく、あれは馬超に飲ませても何の効果もなかったに違いない。
諸葛亮は、平気でただの酒を趙雲に渡したのだ。ただ、大切な事を見えないようにして伝える。そんな人だった。
馬超のように、全て何かを失った事はない。孤独になった事もない。
馬超がどこを見て生きているのか、馬超の心が分からなかった。
字を呼んでも届かないところへ、馬超は行った。
馬超の心を理解してやるのは自分ではないのだと、趙雲は思う。
自分はいったい馬超の何を追い求めていたのか――
そう思うと、泣きたくなってきた。自分が泣くことはないのに、本当に泣きたいのは馬超だろうに、何故自分が泣くのか?
「帰りましょう、孟起」
「子龍、待て」
馬超に趙雲は言い放つ。歩き出そうとして、袖を掴まれている事に気付いた。
「俺を、また1人にするのか」
強く引かれて、趙雲は嫌でも馬超の顔を見る格好になる。馬超は真直ぐに趙雲の顔を見ていた。
「俺を、また1人にするのか?」
先ほどよりも強く、その呪文は言い放たれた。
趙雲の心を、その呪文は強く縛り上げた。
「……もう二度と、孟起を1人になんかしない。約束、します――」
とっさに出た言葉に自分で吃驚して、趙雲は完全に冷えきっていた馬超を抱きしめた。
「約束?」
本当だな、破ったりなんかしないな?
馬超の頬をつたうのは、冷たいだけの雨ではなく――

□■□

先を進む趙雲に馬超は素直に従い、趙雲の後姿をただ見ていた。
随分と雨に晒されていて、その着物はかなり重たそうに見えた。
彼は、何かいろんなものを背負っているようにも見えて、俺は孤独を背負っているではないか、と自分に言い聞かせ、趙雲の横に並んだ。
「子龍、槍術では負けても、背負ってるものは俺のほうが重いんだからな?」
「何を言って……」
急な馬超の一声に、趙雲は困ったように笑った。
「帰ったら、旨い肉が食えるな」
「食べ過ぎるなよ、子龍」
「孟起こそ」
冷えきった2人が帰るのは、あたたかな仲間達がいる所。







本文は、鴻月と珠礁が交互に文章を書いた後、珠礁が全体的に手直しした文です。

一度は書きたかった趙馬モノです。
本当は諸葛亮と姜維がもっと出しゃばってくるんですが、本作に関係ないと珠礁がみなし(笑)カット。
ごめんね鴻月v
いやぁ、終わり方分からなかったんで変だとは思いますがこれにて。
気持ち確かめあっただけじゃん……とかなんとか苦情はメールで(汗)
ここまで読んでいただき有り難うございました。
今ではすっかり…いや、ばちょちょのほうが多いのかな?
お気に入りなのでこれからも書いていきます!




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